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2010.01.19 Tuesday | posted by スポンサードリンク
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奈良時代の名僧、行基菩薩
「菩薩」と言えば、大乗仏教興隆以前にはお釈迦様の成道前の修行時代のことのみを指し、大乗仏教においては観音菩薩や文殊菩薩、弥勒菩薩などへの信仰が盛んになりました。
ところが、歴史上実際に存在した人間でありながら、人の為にとの想いに人生を捧げたその生き様を称えて人々から「菩薩」と呼ばれ敬われた方々がいます。
そんな方々の生き様を通して「菩薩道とは何か」を受け取り、彼らのいのちを引き継いでゆきたいものです。
710年(和銅3年)3月10日都が藤原京から平城京へ遷都され、行基43歳は、薬師寺、大安寺(大官大寺)等の南都の諸大寺の移建に貢献したが、711年(和銅4年)9月4日諸国の役民が造都に労し奔亡(ほんぼう)多く、詔(みことのり)が出されて、兵庫に軍営が建てられ、712年(和銅5年)正月16日諸国の役民で帰郷の時に飢える者が多く、国司らが賑恤(しんじゅつ)し、10月29日帰郷の役夫と運脚夫の困難を救う為、郡稻を便地に貯えて交易せられたが、見るに見かねた行基45歳は、貧困に苦しむ民衆に飯を与えて泊める為の施設、「布施屋」を摂津に3つ、和泉、河内、山城にそれぞれ2つ建て、また、生駒山の東側(生駒谷)に僧庵「草野仙房(かやのせんぼう)」を営み、そこで布教活動をしましたが、寺院外でも布教の禁止を破って行ったため、717年(養老元年)4月23日行基の民間伝道が僧尼令違反として弾圧されたが、それでも、女帝で第44代元正天皇の御代、721年(養老5年)行基54歳は、平城京右京三条三坊に寺史乙丸より宅を寄進され、そこの地名を取って菅原寺(現在の喜光寺)と称し、それまでの和泉、河内を中心とする活動から、菅原寺を中心に活発な布教活動を行うと、境内に入りきれない難民が溢れました。
なお、行基は全国を行脚するために我国初の日本地図である「行基図」を作り、後々まで日本地図の原図として用いられ、原図は現存しないけど、江戸時代の中期に「長久保赤水」や「伊能忠敬」が現われる以前の日本地図は、「行基図」を元にしたものと云われています。
また、行基は全国各地の温泉も掘り出し、草津温泉、野沢温泉、山代温泉、山中温泉、有馬温泉など、行基開湯の伝説が数多く残っています。
738年(天平10年)行基の布教活動を朝廷が認め、彼を「行基大徳」と呼び、その業績を大いに讃え、行基の布教活動を許しましたが、行基は宗教活動の他、社会事業にも精進し、摂津から河内への直道や、橋(摂津に4、山城に2)、大阪狭山市の狭山池、岸和田市の久米田池、伊丹市行基町の昆陽池などの溜池(和泉に8、摂津に6,河内に1)、船溜まり(和泉、摂津にそれぞれ1)造り、摂津から播磨にかけて、河尻泊(尼崎市神崎町)、大輪田泊(神戸市兵庫区)、魚住泊(明石市魚住町)、韓泊(姫路市的形町)、室生泊(たつの市御津町室津)の5つを整備し、行基が海上の安全を祈祷したら、畳2枚ほどの大きなエイが現れたのが明石の江井島(えいがしま)漁港で、堀(摂津、河内にそれぞれ1)、溝(摂津に3、和泉に2,河内に1)、樋(河内に3)などを各地に造り、その他、行基は「興福寺」、「元興寺」および総国分寺「東大寺」の建立に尽力し、生涯に48ケの大寺院を始め、全国津々浦々に寺院道場を約1400も建立したのに、「元興寺」の智光は行基の悪口を云ったので、地獄へ落ちたが、その後蘇生して行基に謝ったと云われ、「元興寺」の屋根は、日本最古の瓦を使用し、行基葺と呼ばれています。
746年(天平18年)行基は宿願があって春日神祠に参籠すると、春日明神の夢のお告げがあり、「ここから坤(ひつじさる、西南)の方向に霊地がある。すみやかに精舎を建て、人々を救え」と云われたので、当時密生していた椣(しで)の霊木を以て、一刀三礼(いっとうさんらい、一刀するごとに三度礼拝)しながら、高さ1mほどの本尊「薬師如来坐像」を彫り、聖武天皇の勅許を受け一大精舎を建立し、名付けて椣原山(しではらさん)「金勝寺」と称し、また、聖武天皇より賜った長谷試観世音菩薩像を携えて、これを安置する場所を求め、山陽道を下り、和田岬まで来た時、異光を放つ処があったので、不思議に思い近づくと、地中より薬師如来が出現し、その地を有縁の地と定めて伽藍を創建し、薬師如来と携えて来た観世音菩薩像を共に祀ったのが兵庫区今出在家の「薬仙寺」です。
「蟹満寺」の逸話
「日本霊異記」中巻第八話によると、昔、山城国紀伊郡に生れつき慈悲深い女がいて、7歳の時から法華経を読誦(どくしゅ)し、常に観音菩薩を念じていましたが、ある時、村の牛飼いの子供が蟹八匹を捕って焼いて食おうとしていたので、彼女が着物と蟹を交換して、蟹を助けてやりました。また後に山中で、大蛇が蛙を呑み込もうとしていたので、「お前の嫁になるから、蛙を放しておくれ」と云って、蛙を助けてやりました。
そして、3日の後、大蛇が彼女に妻になることを要求して来たので、女が行基菩薩に悩みを訴えると、行基菩薩が、「仏・法・僧の三宝を厚く信じなさい」と云われたので、約束の日に女が家に篭り、一心に三宝を敬いお祈りしていると、大蛇が屋根に穴を開けたのに、ドスンと落ちて来ました。よく見ると、大蛇に八匹の蟹が食いつき、八つ裂きにして、昔の恩返しをしました。なお、これらの話は、平安後期の「法華験紀」や「今昔物語集」にも載っています。
(引用元)『奈良観光』(引用転載了承済み)
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