南無阿弥陀仏、誰かこの意味しりませんか?十念のときは八回までなむあみだぶ、九...
twinhidemaro2さん
南無阿弥陀仏、誰かこの意味しりませんか?十念のときは八回までなむあみだぶ、九回目で南無阿弥陀仏、十回目はなむあみだぶ~、少し伸ばして言ってます。
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質問日時:2008/5/18 02:16:02
解決日時:2008/5/24 21:52:55
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ベストアンサーに選ばれた回答
butsuji_teraさん
十念のときに八回まで、九回目が、そして十回目はというのは浄土宗さんでの「十念」の際の声明作法ではありませんか?
九回目は音程も上がり「南無阿弥陀仏」ですね
南無阿弥陀仏という念仏=六字名号の意味合い等の解説はdodaitos_papaさんのご回答の通りです。
ただ教義上の解説は、真宗上の解説ですので、ご質問者さんの聞かれる意味合いが不明ですので小生はあえて解説する
つもりはありませんが、日本での浄土教の流れでの念仏(南無阿彌陀佛)は中国の善導流の念仏で、善導大師はこの「南無
阿彌陀佛」の六字に往生すべき願と行が具足すると(二字四字分釈、願行門の六字釈)と説かれています。
平安時代までの浄土教は善導流が主流で、法然上人もほぼ善導大師ひとりに依った教学となっています。
その後、親鸞聖人が六字全体を如来の喚び声(六字合釈)と味わわれ、さらに蓮如上人は、「タノメ タスクル」と、たのむ
機とたすける法(機法門の六字釈)と釈されています。
また、dodaitos_papaさんのご回答の十念に関する部分(仏説無量寿経の四十八願文の第十八願文の「十念」)もあくまで
真宗での解釈であります。法然上人の教学は、善導大師のお勧めをひたすら仰いでいかれましたが、親鸞聖人はこの念仏行
としての流れを受け継ぎながらも、信心の本質的なところは天親菩薩・曇鸞大師を依りどころとし、さらに発展させて真実信
の本質を明らかにしていかれています。
念仏が要[かなめ]であることは両師の共通したお示しで、信心の大切さは法然上人も「まさに知るべし、生死の家には疑を
もって所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす」と述べてみえます。しかし親鸞聖人はその信心の真実性を厳しく問われ
ます。さらに「念はすなはちこれ唱なり」と法然上人は述べてみえますが、親鸞聖人は引用文以外では「唱」の字は一切使用し
ていません。必ず「称」の字を用いられています。「唱」は声に出すことを言いますが、「称」は「たたえる」意を含んでいます。
「唱える」のは、声が出る人なら理由も分からず唱えることもできます。しかし「称える」ためには、みずから仏意を尋ねて領解を
得てはじめて適います。 つまり法然上人と親鸞聖人の示しには若干の違いがあります.
浄土宗さんの十念は十八願文の中心に十念と説かれ、さらに『観無量寿経』に「智者また教えて合掌叉手して南無阿弥陀仏と称せしむ」「至心に声をして絶えざらしめ、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ」と説かれています。
したがって浄土宗は同称十念で、理屈抜きで、阿弥陀仏のお前で同称十念です
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編集日時:2008/5/24 03:23:59回答日時:2008/5/18 02:52:38
質問した人からのコメント
家は浄土宗です。線香は3本までと決まってますし、暗記して言えますが、意味を理解するにはまだまだ時間がかかりそうです、家は墓石が五つありますから、位牌も一つは繰越位牌です、毎日拝んだ後足がしびれます。有難うございました。
コメント日時:2008/5/24 21:52:55
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tokusoukeijigooさん
南無阿弥陀仏とは、 もともとはインドの言葉で ナーム アミ ダボー といいます。
古代語だそうです。 大昔にアミーというお方が仏教をお説きになられた。 お釈迦
様のようなすばらしい方だそうです。 この方の教えに帰依します。 という意味だそうです。
ナームとは帰依するの意味
アミー とは昔の賢者の名前
ダボーとは読んで字のごとく仏
という意味だそうです。 ですからアミー様の仏の教えに帰依する の意味です
ちなみに般若心行もインドの言葉で、当時2500年前お釈迦様の当時
呪文のように唱えていたそうです。
”マーハーパニャーパラーミターチタースートラー ” と言う風に
当時のインドの言葉であります。 お経というよりも呪文のように
唱えていたという感じですね。 これ本当ですよ、
意味はマーハー とは偉大な
パニャーは 智恵に、です
パラミタは到達する の意味です。
”偉大な智恵に到達する心の教え” という意味だそうです。
上の回答者さんのような人もインドのお釈迦様の当時
バラモンとしてこうゆう方たくさんおられました。
ブッダは”バラモンとの宗教論争をしない事”ときつく
弟子たちを戒めてました
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編集日時:2008/5/21 16:03:29回答日時:2008/5/18 18:08:48
dodaitos_papaさん
南無阿弥陀仏の直訳
①インド古代言語のサンスクリット語では南無→ナーモ 阿弥陀仏→アミターバ
ナーモは帰依する意 アミターバのアは後字の否定という意 つまりミターバの否定文という意となる
(アミーが人の名前等という仏教学者は一人もいません。)
②このナーモ アミターバという音字に中国で漢字にしたものが「南無阿弥陀仏」という文字です。
③この南無阿弥陀仏を日本の言葉で表現すると「南無は帰命」 「阿弥陀仏の弥陀は碍りであり、障りの前に阿が
付いているので、「碍り」の否定になる。となると、阿弥陀は無碍となる。
仏は真如より来る意であるから、如来という。
更に仏名を解釈して、この如来の救いの光は時間的にも空間的にも行き届かぬことはないということから、
「尽十方無碍光如来」といいます。
よって、南無阿弥陀仏を日本語訳にしますと「帰命尽十方無碍光如来」となります。
以上が直訳の解説です。
教義的には、南無阿弥陀仏とは如来さまの方から言えば「われをたのめ、必ず助ける」という勅命であり、
その仰せを聞き受けている私どもの方から言えば「必ず助かると弥陀をたのむ」信心を表す言葉
となります。
蓮如上人の「御文章」には
「他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり」
とあります。そして、私が南無阿弥陀仏と称えているのは「おんたすけにありつることのありがたさ
とうとさよとおもひて」称える仏恩報謝の営みであると言われています。
要するに南無阿弥陀仏とは、必ず助けると仰せられる如来さまの仰せであり、そのままが、必ず
助かると受け入れて安心している信心の姿であり、お助け下さって有難うございますとお礼を申し
ている姿でもあると言われています。
ここで言う「たのむ」というのは憑むという字を書きます。この憑むの意味は「あてにする。おまかせする。」
という意味であり、頼むという字の「お願いする」という意味ではありません。
また、十念についてのご質問ですが、十念は無量寿経上巻の十八願文中に
「乃至十念」
とあるところです。十念の前に付けられている「乃至」が非常に大事なところで、これは必ずしも十念に
限るものではないとの意味です。
そのことを中国の善導は
「上尽一形 下至十声 一声等(上一形を尽くし、下十声・一声等に至るまで)」と解釈されます。
つまり、一生涯の念仏から一声の念仏までという意味です。
また、親鸞聖人は
「本願の文に「乃至十念」と誓いたまへり。すでに十念と誓いたまへるにてしるべし、一念に限らずといふことを。
いわんや乃至と誓ひたまへり、称名の遍数さだまらずといふことを。この誓願はすなわち易往易行のみちをあら
はし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまふなり」
と言います。
つまり、念仏は私の側での功を全くみない。自らをあてにしないのです。
「十」は仮に定められた数字に他なりません。
つまり、無量寿経ではそれほど「十」にこだわっていないのです。
例えば、無量寿経下巻の最初には、上巻の乃至十念が出ていた本願文の成就文が書いてありますが、
そこは「乃至一念」とあり、「十」ではなく「一」になっています。
お経本に念仏が十回書かれているなら、十回拝読されたらよいと思いますが、飽くまでその「十」は乃至の「十」
の意味であり、本来は数に拘りを持たないのだということを意識されたらよいと思います。
更に、「たのむ」の文字は室町時代までは「憑む」という義です。
浄土教の教え自体は平安時代に既に伝播されていますが、日本浄土教団としての成立は鎌倉時代
ですから、これは浄土宗の元祖法然上人の義でもある訳です。
仮に「南無」をお願いする義であるとする宗派があるならば、元祖の本義でないということになります。
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編集日時:2008/5/19 20:33:42回答日時:2008/5/18 08:56:47
bwds98さん
南無は、おすがりすとか、お頼みします、お願いします、だそうです。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏(仏様)にお頼みしますと言うようなことです(母の葬式の時に、住職が言っていました)。
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