2011年2月1日 星期二

浄土真宗はどんな宗教ですか?

浄土真宗はどんな宗教ですか?enkin_100さん

浄土真宗はどんな宗教ですか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97
調べても、長すぎて、難しすぎて解らないです。

無学なもので・・

簡単に教えてほしいのですが?

補足 >>>報恩感謝の意味で、念仏すれば良いのです。



そんな簡単なことに何故
本が必要なのですか?

坊さんが要るのですか?

なんだか簡単すぎるように思うのですが?
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質問日時: 2011/1/18 12:51:05
解決日時: 2011/1/24 23:28:44
回答数: 6
閲覧数: 86
ソーシャルブックマークへ投稿: Yahoo!ブックマークへ投稿 はてなブックマークへ投稿 (ソーシャルブックマークとは) ベストアンサーに選ばれた回答jsr15429さん

浄土真宗は念仏を称え、その簡単な念仏にこめられた仏の願いを受け止め、私が仏になるという宗教です。

浄土真宗の教えは仏教の中でも、究極の教えです。(突き詰めていったらこれしかなかった)

簡単なことと思える中に、宗祖の苦労や時代背景、教えを受けるものの状況、阿弥陀仏のご苦労などいろいろな話があるのです。簡単ということは簡単にするまでの苦労があるということです。

簡単なようで簡単でないことを簡単に説明することもとっても難しいことです。

違反報告 回答日時:2011/1/24 01:36:13
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ベストアンサー以外の回答
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pukuma_teddybearさん

(約1名、何しに来たんだ?このア○??というのを除いて)
報恩感謝の念仏について述べられています。

しかし、少々、考えてみて欲しいのです。

私たちは、幸福になりたい、苦悩から解放されて救われたいと願います。
そして、私たちは、何か行為するとき、それは善い行いであるということを基準にし、また、そうありたいと思うわけであります。

それゆえ、宗教、倫理、哲学を問わず、善行と救済は切ってもきれない関係があるとされています。
例えば、子供の頃に親から、「人には親切にしなさい。そうすれば、きっといいことがあるから。」と教えられた人は多いでしょう。
ここに、善行が条件として、幸福や救済がもたらされるという構図があります。
それについて、異議を強く唱えるつもりはありません。

しかし、問題は報恩感謝の念仏であります。
恩に報い、感謝するということですが、私たちが何かをしたのでしょうか?
つまり、幸福や救済の条件となる行為が存在していないわけであります。
私たちが、何かしようとする以前に、極楽往生が決定している、その事実に気が付いたとき、自ずと感謝の念として、念仏が唱えられると

いうことを言っているわけであります。

しかし、問題は残されています。
本当に極楽往生は決定されているのか、そもそも極楽浄土も阿弥陀如来も存在しているのか?という問題であります。

ちょっと、話を戻します。
私たちは、先述したように、善い行いを求めようと、己の行為が善いことであるということを求めようとします。
しかし、本当に善い行いはできるのでしょうか?
私は、非常に難しいことだと思います。

仏教の話ですので、シビ王の鳩と鷹の話を持ち出すのがいいでしょうが・・・
ここは趣向を変えて、女優の高木美保さんの話を、一例として出してみます。
高木さんは普段は栃木県の那須高原で、農作業などをしながら生活をされています。
時間があるときは、近くの雑木林で散歩をするのが日課だそうですが、ある日、雑木林の中にある鳥の巣箱に、蛇がヒナを食べようと入り

込もうとしています。親鳥は何もすることができず、ただ、鳴いているだけでありました。
一緒に散歩をされていたご両親は、蛇を追い返そうとしますが、高木さんはそれを止めました。
「蛇も一生懸命に生きようとしている。だから、手を出してはいけない」と。

おおよその方は、蛇を追い返そうとするでしょう。
しかし、その一方で、私たちは「命は平等である」と考えます。
だとしたら、私たちが蛇を追い返そうとすることは、蛇を飢えさせることであり、「命は平等である」という考え方と反します。
言い方はきついですが、蛇を追い返してヒナを救おうとすることは、偽善であるとしか言いようがありません。
shamosikaさんが、
>「私の都合や損得や打算、価値観、自己が用いる常識等を加えずに」という意味
と述べられていましたが、善行において同じことがいえます。
真の善行であるためには、shamosikaさんが言われることに合致していなければなりません。

では、蛇の行いを見過ごした高木さんは、そのときどのような心情だったのでしょうか?
弱肉強食を持ち出していれば、それまでですが、しかし、おおよその人々は、見殺しにしてしまったという後ろ暗い心がうまれるでしょう


おそらく、高木さんも同様だったのではないのでしょうか?

ヒナを救えば蛇を飢えさせ、蛇の行いを見過ごせば、ヒナを見殺しにする・・・
もし、これらをすべて解決できる方法はないのか?
それは、自分が蛇に食われればいいのです。しかし、それはできるものではありません。

確かに、全ての人に、この話は同意を得ることは難しいでしょう。
しかし、私たちの行いや考え方を振り返ると、常に偽善と罪の意識の間、後ろ暗さの中に置かれているといえるでしょう。

では、私たちには救いがないのでしょうか?

私たちの心の中に、後ろ暗さが生まれるとき、心の中に影が落とされたように感じることでしょう。
しかし、どうして影ができるのでしょうか?本当に私たちがどうしようもない存在であるのなら、心の中は闇でしょう。
影ができるのは、光があるのは言うまでもありません。

それと同じく、私たちの心を照らす光、慈悲と智慧の光が照らされているから、私たちの行いや考え方が、心の中で影として現れるのです

。私たちの心を照らす光は、どこから発せられるのか?という問題に、真宗では阿弥陀如来が照らしていると考えるわけであります。

では、私たちの心をどうして阿弥陀如来が照らすのでしょうか?
それは私たちを救いたいと願っているからであります。
先述したように、私たちは常に偽善と罪の意識の間にあり、善い行いも救済も程遠いところにあります。
それ故、私たちに極楽往生を願わそうと、差し向けられているのです。

ただ、問題なのは、私たちがそれに気が付くか否か?その問題が残ります。
字数制限もあるので、このあたりで終わります。

違反報告 回答日時:2011/1/19 19:13:55 shamosikaさん

歎異抄にこうあります。「親鸞におきては、"ただ"念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと」です。
この「ただ」とは、とにかく何の考えも理解も無しに行う・・・という"ただ"ではなく、「私の都合や損得や打算、価値観、自己が用いる常識等を加えずに」という意味の"ただ"だと聞いております。違う言い方をすると「阿弥陀仏の願い、思い、その命のままに」という意味での"ただ"です。

>>報恩感謝の意味で、念仏すれば良いのです

と言われても、そこでいう感謝の意味やコチラに掛けられた恩も感じらぬ中で「恩に報い、感謝する」という事は出来ないと思います。
とにかく念仏しているだけでは「私の思いのままでの念仏」で終わってしまいます。
「南無阿弥陀仏」のいわれを聞き続け、聞きぬくことによって弥陀の法に出遇うのでしょう。法を聞く=聞法がなければ意味がありません。
阿弥陀仏の他力に生かされていく・・・そのままに・・・ということだろうと。

無間地獄の苦に行かせまいと願いと行いを建て、誓われたのが阿弥陀仏の大願です。

違反報告 編集日時:2011/1/18 21:51:41 回答日時:2011/1/18 21:49:35 ffkinsai_spaceさん

我は、元白蓮です 凛!ちっ違った瑞喜如来 なり 。

>浄土真宗はどんな宗教ですか?

死んだら絶対に【無間地獄】↓↓に堕ちる宗教です!保障します!!


違反報告 回答日時:2011/1/18 14:46:06 kgyfsifss6tk85さん

老人であろうが、若かろうが、男も女もどちらでも、

善人でも、悪人でも、とにかく誰でも救われる教えです♪

何の難しいことがありませう。

念仏する時(阿弥陀如来に、振り向く時)すべてが救われ済みであると

気づかせて頂ける。阿弥陀様の御恩に気付かせて頂ける。

報恩感謝の意味で、念仏すれば良いのです。

要するに、どんな悪人でさえ、如来の子であり、本来罪も悪もない

産まれる前の前から、救われ済みの如来の子だという事です。

それに気付かないから、どうしたら救われるか、親鸞様は考えられた訳で

それにはただ念仏すれば救われる、と説かれたのです。

本当は、念仏すれば、自分に仏様の心(善の心)が出てくるので、

本来無い悪が、元々無いから消えるのです。

ですから、親鸞様は、罪悪尽重の凡夫と嘆かれた訳でして

ニセモノで、ニセモノを消そうとしても、悪は無なので消えないのです。

なので、善の力(阿弥陀様)を呼び出せば、

光の前に悪(闇)は消える。念仏すれば救われる。といわれたのです。

ちなみに、一切の悪は無いと説きますから、

方角も占いも、おみくじも、仏滅も、吉凶も一切信じません。

なので門徒物知らず(=門徒は物忌みを知らない)

という間違った名前がついたのです。

全部救われて悪の無い世界、全てが如来の有難い世界なんですよ。

どうぞ感謝報恩で念仏を唱えられて下さい。

きっと有難い世界が開けてきます。


PS 奥深く言えば、仏の世界・悟りの世界は無限ですから

勿論本や経典では足りない程の、無限の世界なのです。

あなたが簡単に言えとおっしゃるから、

簡単に省略して言ったのですよ。

分からなければ、どこでも良いので、近所のお寺に行って

お坊さんに詳しく教えてもらって下さい。

いくら言っても、仏の力を信じず、疑り深い凡夫の為に

親鸞様は苦労されて経典を、本を書かれたのでしょう?

今現に、あなたを生かしてるのは、阿弥陀様だとお気づき下さい。

気付かれないから、いつまでも疑い、迷わなければならないのです。

それに気付かせて頂けるための、感謝報恩の念仏です。

違反報告 編集日時:2011/1/18 15:37:39 回答日時:2011/1/18 13:40:12 schoolhiro2628さん

浄土真宗は、親鸞聖人の宗派です。
教義は、阿弥陀仏を信じるだけですべての人々が極楽浄土へ行けるという絶対他力を説くことです。
親鸞聖人は、法然聖人の弟子でした。
法然聖人は、浄土宗の開祖です。

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