1 日本の近代国家への歩み
1-1 幕末の日本
1-1-1 黒船来航
1853年6月3日午後5時、ペリー提督率いるアメリカ合衆国海軍の軍艦4隻が江戸湾に現れた。有名な「黒船来航」である。天気は快晴、夕暮れをひかえたが初夏のまだ明るい空の向こうには霊峰富士が遠望できた。とペリーが言ったかどうか分からないが、この事件がその後の日本の150年を決定する大事件になったことは確かなことである。日本の近代の幕開けはこのときから始まったのである。
アメリカ軍艦は、戦闘体制を整えると、浦賀沖に投錨した。浦賀奉行、中島三郎助はすぐに小船を出し、旗艦サスケハナ号に出かけると、司令官ペリーに対し、日本では、外交交渉は、すべて長崎で行っているので、長崎にいくよう要求した。しかし、ペリーはこれを断り、アメリカ合衆国大統領フィルモアから日本国皇帝へあてた国書を受け取らない限り退去しないとつげ、要求が受け入れられないならば一戦に及ぶと脅した。当時の日本とアメリカの武器の性能は大人と子供の差ほどあった。もし、アメリカ側が艦砲射撃を行えば、江戸の町は廃墟と化しただろう。驚いた中島は、江戸へと早馬を走らせた。知らせを受けた日本政府(幕府)もうろたえるばかりだった。幕府の中心人物、老中阿部正弘は、結局、国書を受け取ることにした。国書には、「日本が鎖国を止めて、アメリカ合衆国と貿易を行うこと。合衆国の船が、日本近海を航海中の一時避難や、食料や水、燃料を補給するために、港を一箇所開くこと」が要求されていた。
ペリーは、日本政府に対して即答を求めた。しかし、日本は国是としてきた鎖国を止めることなど、大きな問題をつきつけられ、即答はもちろんできなかったし、満足な討論もできなかった。阿部正弘は、1年後の解答を約束し、ペリーに退去を願った。ペリーは、この申し入れを受け入れ、江戸湾を後にして、香港に向け出港した。
これが、事件のあらましである。日本国民はこの事件を「上喜撰(蒸気船) たった4杯(隻)で 夜も眠れず」と川柳でからかった。上喜撰とは、江戸時代の高級日本茶の銘柄である。この茶を4杯、(つまり4隻、船の数え方は日本では、1はい、2はいと言う)で目がさえて眠れない。つまり、大慌てで寝る間も無いほどの大騒ぎというわけである。
コラム
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黒船来航時の日本とアメリカの戦力があまりにも差があったことから、日本の武器の貧弱さを「江戸時代の日本の技術の未発達」「鎖国による技術的低迷」と見る傾向が従来強かった。しかし現在、日本の研究者の中から、「江戸時代の日本の平和と安定」の結果との見方や「鎖国政策がもたらした、欧米列強との摩擦の少なさ」の結果と、江戸時代の日本の政策を評価する見方が出され、重視されてきている。
従来の見方は、明治新政府が江戸幕府の政策を否定し、自らの評価を高めるために作り出したものと考えられるようになってきつつある。江戸時代の見方は今、日本で急速に変わりつつあり、評価は高まっている。
コラム
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幕府の慌てぶりとは裏腹に、日本の民衆は黒船来航を楽しんだ。黒船来航のうわさは、瞬く間に日本全国に広まり、一目黒船を見ようと、多くの人々が浦賀の海岸に集まった。幕府は、それを禁止しようとしたが、無駄だった。人々は黒船を見て驚嘆し、海の向こうの世界へと思いをはせた。海岸一帯には連夜かがり火がたかれ、見物人目当ての夜店まで出たという。
1-1-2 開国
ペリー艦隊が去った後の日本政府(後、幕府と呼ぶ)の混乱ぶりは目も当てられないものだった。当時の幕府は、全国の親藩、普代の大名の中から優秀な者を集め、幕閣(内閣)を作り、政策を決定していた。徳川の将軍はその決定に承認を与える権限を持ち、最終決定権を持っていた。しかし、この時の13代将軍徳川家定は病弱で、国政への関与も決定能力もなかった。
幕府内部では、有力大名達が発言力を増し、幕政へ干渉し、幕府の中心人物であった阿部正弘は、意見をまとめることができなかった。そこで、阿部はそれまでの日本の権力者が決してしなかったことをした。国民の意見を聞くことである。阿部は、大名、旗本といった有力な武士階級だけでなく、町人や農民といった下層階級の国民にまで広く意見を聞いたのである。
その時の日本人の多くは、上層、下層をとわず開国には反対であった。過激な者(下層の民衆に多かった)は武器を持ってアメリカを追い払えと騒ぎ、有力大名の中にも少なからずそう主張する者もいた。しかし、多くの者は、何かうまい理由をつけて開国要求を断るようにと主張した。だが、誰一人として、戦って勝つ見とおしを持っていなかったし、断るうまい理由も見つけられなかった。そうこうしているうちに、翌年を迎え、ペリーの再来航を迎えてしまったのである。予定より半年も早く再び日本にやって来たペリーは、幕府に解答を求めた。その時ペリーは「よい回答を得られないならば、戦争をも辞さない」と日本側を脅した。幕府はのらりくらりと即答を避けて時間を稼いだが、よい方法など無かった。1854年3月3日、ついに幕府はペリーの要求に屈指、日米和親条約に調印した。ここに260年にわたって、江戸時代の日本の国法であった鎖国が終わったのである。
この条約によって日本は、下田、函館の2港をアメリカに開き、アメリカに最恵国待遇を与えた。
1-1-3 日米修好通商条約と安政の改革
アメリカに脅されて条約を結ばされてしまったとはいえ、幕府はその後何もしなかったわけではない。阿部正弘は、ペリー来航以来の日本の弱腰外交を克服するためには、日本の近代化しかないと考え、すぐに着手した。それは阿部だけでなく、各地の先見の明のある大名達も同じであった。いくつもの藩で独自に近代化政策が行われた。それは、西洋の進んだ科学、技術、学問を学ぶための学校の開設であり、洋式製鉄所の建設であり、洋式造船所の建設であった。
中でも、幕府が長崎に開設した「海軍伝習所」は西洋式海軍創設のためにオランダから、軍艦を購入し、オランダ軍人を講師に招き、航海術、造船術、数学、物理学など広く西洋の学問、技術の習得を目指した。後にここから勝海舟を始め多くの人材が輩出し、日本の近代化に大きな役割を果たした。しかし、残念なことに近代化政策を先導した阿部正弘はその志半ばにして39歳の若さで病死してしまったのである。阿部の死は、その後の日本の道に大きな変化を起こした。
もし阿部がその志を遂げたなら、幕末の混乱は起こらなかったかもしれないし、明治政府とは違った形での「新日本」が形成されたかもしれないだろう。阿部正弘に対する評価が低かったのは、明治新政府が日本の近代化を自分たちの専売にしたかったからである。後の最後の将軍15代将軍徳川慶喜への評価と並んで、今一度検討しなければならないところである。幕府が旧守派は、倒幕派が革新とは一概にはいえないのである。
阿部の近代化が行われている間に、アメリカは日本を本格的に開国させる準備を急いでいた。和親条約が結ばれると、アメリカは下田に領事館を置き、ハリスを初代の日本総領事として派遣した。ハリスは着任すると、幕府に通商条約の締結を迫った。ハリスの言い分はこうだった。
「イギリス、フランス、ロシアなどの列強がアジア諸国を植民地化しようと狙っている。日本も例外ではない。そうなる前に、アメリカときちんとした条約を結んでおけば、列強も無理なことはできない」しかし、そういう一方で、通商条約を結ばないなら、アメリカも強力海軍を派遣するだろうと脅したのである。
阿部急死の後、幕府の中心になったのが井伊直弼である。井伊は、大老となり国の危急時の専制的大権を手に入れていた。もともと積極開国派であった井伊は、ハリスの申し入れに従って1858年日米修好通商条約を締結した。この条約によって、日本は下田、函館のほかに神奈川(のちの横浜)長崎、新潟、兵庫(後の神戸)を開港することになった。しかし、この条約には、その他に、日本側に関税自主権が無いことや外国人や外国人居留地内の治外法権が認められていることなど、日本にとって不利な内容が含まれていた。このことが後に不平等条約として、明治政府の条約改正の苦労を生み出すことになった。また、幕府に対する批判の元ともなった。
また、この条約による急速な外国との貿易解放は、充分な用意の無い日本経済を混乱に落とし入れ、国民生活に大きな影響を与えることになり、幕府への批判を強めることになった。コラム 横浜金鉱物語
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開国当事、外国商人の間に、「横浜には金鉱がある」といううわさが流れた。これは、横浜に行けば金が手に入るといううわさである。事実であった。当時の幕府には国際貿易の知識が無く、ましてや国際通貨についての知識など皆無であった。金と銀の交換比率の国際的基準など知らなかった日本人は、1:15であった国際基準よりもはるかに高く1:5という日本基準で金銀を交換してしまった。気づいた時には大量の日本金貨(小判)が海外に持ち出されていた。
1-1-4 尊王攘夷運動と安政の大獄
幕府の開国政策による国内の混乱と、不平等条約への不満は幕府への批判として急速に国内に広まった。その中心になったのが、西南の雄藩といわれた長州藩と薩摩藩であった。これらの藩では、藩政改革に成功し経済的にも政治的にも充実した時期にあった。特に、改革にあたって、身分の上下を問わず、能力のある者を藩政の中心に取り上げたので、優秀な人材が輩出した。これらの人材の中から、明治新政府の中心となる人物がほとんど出たのである。幕府への批判は開国政策への批判であり、それは当然のこととして、それらの混乱の原因を作った外国勢力へと向けられた。「外国を追い払え」…いわゆる「攘夷運動」である。
諸悪の根源は外国にあるというナショナリズムの高揚である。この運動は瞬く間に全国に広がった。もともと黒船来航以来、民衆は開国には反対だったのである。攘夷運動は、幕府が開国にあたって、朝廷の勅許(許可)を受けなかったことから、天皇こそ日本の最大権力者(元首)であるという思想と結びつき、尊王を掲げ、尊王攘夷運動へと発展していった。幕府を批判し、その政策を批判するために、将軍にその位を与える役割を担う形式的には上位にある天皇を持ち出したのである。ここに、1000年の眠りからさめた、新たなる天皇制が近代日本に登場したのである。
天皇が歴史の表舞台に登場したことは、その後の日本の150年にきわめて大きな影響を与えることになった。その意味で、尊王攘夷運動は、その後の日本の道を決めたといってもいいであろう。尊王攘夷運動の盛り上がりとともに、日本における天皇の偉大さを宣伝する尊王思想が形成された。その代表的人物が長州藩士、吉田松陰である。吉田の思想の基、その後の日本を担う人材が長州から多く輩出したことは、明治日本の近代的天皇制形成に大きな役割を果たした。尊王攘夷運動は、長州藩、薩摩藩だけでなく、御3家の一つ水戸藩を始め、土佐藩などでも有力となった。それらの藩の大名達は、幕府に対して、攘夷の実行を迫る一方、朝廷に接近して、幕府に攘夷の実行を命令する勅許を出させようとした。それまで、日本の政治とは離れた場所であった、京都がにわかに政治の舞台となったのである。
一方で攘夷派の下級武士達は、各地で外国人を襲い、攘夷を実行したのである。尊王攘夷運動の盛り上がりと朝廷の発言力の強まりに危機感を感じた大老井伊直弼は、大弾圧を持ってこれにこたえた。安政の大獄である。井伊直弼は、公然と幕府を批判した大名達を処罰し、幕政から遠ざけると、尊王攘夷運動の思想的指導者であった吉田松陰、橋本佐内、頼三樹三郎らを捕らえ処刑した。しかし、この結果井伊は1860年江戸城桜田門外において、水戸藩士によって暗殺されてしまった。有名な桜田門外の変である。
コラム 天皇制
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日本の天皇制を永遠普遍のものあると主張する人達がいる。しかし、天皇が実際に権力を持っていたのは遥か遠い昔で、鎌倉、室町、戦国と時代が下るとともに形式的な存在でしかなくなっていた。特に、戦国期には存在すら知らない国民が大多数を占め、織田信長ですら、学者に指摘されるまで知らなかった。彼は天皇の権力など信じず、あまり利用しようともしなかった。これは豊臣秀吉も同じである。天皇の権力を再び最大限利用したのは、徳川家康である。彼は天皇家に1万石を与え、大名なみの待遇にするとともに、積極的に徳川家と縁組を行い、自らの権威つけに利用した。
これによって、天皇家と、それに従う公家たちの生活は、やっと人並みのものになったといわれる。それほど経済的にも窮状状態にあったのである。しかし、徳川幕府は、天皇の権力が再び大きくなることを防ぐために様々な法規や制度もつくった。ために、江戸時代を通して、天皇は形式的存在でありつづけ、庶民にとっては遥かに遠いものであり、あまり知られてもいなかった。江戸時代の国民にとっては、日本を代表する権威と権力は、公方様、つまり徳川の将軍であったのである。それを覆し、歴史の暗闇から天皇を引きづり出したのが尊王攘夷運動であり、それを担い明治の指導者となった長州、薩摩の人々である。
コラム 井伊直弼
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従来、日本の歴史の中では、大老井伊直弼を尊皇攘夷派弾圧の大悪人としてきた。しかし、井伊は当時の幕府内最大の開国派であり、近代主義者でもあった。
彼は、偏狭なナショナリズムである尊王攘夷運動を日本の近代化の障害と考えていた。彼は、幕府主導による上からの日本の近代化しか、日本を欧米列強の強圧から救う道はないと考えていた。朝廷の妨害もこれへの障害でしかなかった。その意味では、維新後の明治新政府の政策とまったく同じ道を歩もうとしていたのである。
この時点では、尊皇攘夷を唱える、以後の明治の指導者よりも先をいっていたといえるだろう。その彼を大悪人にしたてたのは、明治政府の指導者たちであり、やはり、阿部正弘と同様に、近代化を自分たちの専売にしようとしたためである。その意味で、井伊直弼の再評価は必要である。
1-1-5 尊王攘夷運動の激化と公武合体政策
井伊直弼暗殺後の幕府の中心になった安藤信正は、尊皇攘夷派や朝廷と妥協を図るために公武合体政策をとった。この政策は14代将軍徳川家茂の妻に公明天皇の妹、和宮を迎えるというものだった。しかし、尊皇攘夷派これを認めず、安藤は1862年、坂下門外で襲われ、一命は取りとめたが失脚してしまった。公武合体政策は、安藤後、幕府内で発言権を増した薩摩藩主島津久光によって引き継がれ、朝廷内でも大勢を占めるに至った。幕府と朝廷の妥協が成立したかのように見え、尊皇攘夷派は危機感を抱いた。特に、尊皇攘夷派の中心であった長州藩では強硬論が台頭した。
幕府を批判するために引きずり出した天皇が幕府側についてしまっては何の意味のないのである。尊皇攘夷派は朝廷への工作を強化し、尊王攘夷派の公家を利用して、天皇を翻意させようとした。その中心になったのが後の明治政府の重鎮となった三条実美、岩倉具視らである。一方幕府は尊王攘夷派の京都での活動を阻止するために、京都守護職を置き、会津藩主松平容保をこれにつけると、京都警護のために有名な新撰組を組織した。その後、京都を巡って新撰組と尊皇攘夷派は死闘を続けるのである。長州藩が形勢逆転のために打った手は、武力による京都制圧と天皇奪取である。
1864年、長州藩は兵を率いて京都に攻め上り、京都御所を警護する、会津、薩摩の連合軍と戦った。禁門の変である。結果は長州の惨敗に終わり、長州藩は久坂玄瑞を始めとして、優秀な人材を失った。長州の敗北は朝廷内の攘夷派の敗北でもあった。攘夷派の公家は一斉に京都を離れ、長州藩は天皇に歯向かった藩として朝敵(天皇の敵)とされてしまったのである。この時に公武合体派として長州と対立し、京都で戦った薩摩藩に対して、長州藩は憎しみを増したのである。長州と薩摩は犬猿の仲とされるようになるが、この2つの有力な藩が手を結ばない限り、幕府を倒して新しい日本は作れないと考える者は少なくなかったのである。この2つの藩にどう手を結ばせるか、これが次の大きな課題となったのである。しかし、一方で幕府は、朝敵となった長州および尊王攘夷派を一網打尽にする好機と見て、第1次長州征伐を命じたのである。長州征伐(第1次長州戦争)の中心になったのも薩摩藩であった。藩の存亡の危機に立たされた長州藩では尊王攘夷派が一掃され、幕府への恭順派が権力を握った。吉田松陰の門下生達を中心にした、長州尊皇攘夷派は壊滅的な打撃を受け、高杉晋作、桂小五郎らは、姿を隠したのである。幕府、公武合体派の勝利と見えたこの事態は、後に残った高杉たち、少数の長州尊皇攘夷派の武力決起によって覆されることになるのである。
コラム 新撰組
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幕末機動隊などと呼ばれ、幕末を扱った小説や映画では悪役とされてきた新撰組であるが、その実態は決して幕府側の守旧派の集まりではなかった。組長の近藤勇をはじめ、副長の土方歳三、など隊士の大半は下級武士か、農民出身の若者であり、彼らにとって新撰組は、身分を越えて出世する大きなチャンスであった。思想的には、開明的で、土方のように、後に北海道に逃れ、函館に日本最初の共和国「北海道共和国」を建て、大統領選挙を行った人物もいた。土方に従った隊士も何人かいた。新撰組が戦ったのは、薩摩、長州であり、彼らのきわめて政治的な行動に不信感を持つ者は多かった.近藤、土方の出身地である東京の多摩地区は、明治になってからの自由民権運動の中心地でもあり、それを担った豪農層は、同時に新撰組の支持層でもあったのである.土方らの思想には、長州、薩摩と違い、天皇に対する思い入れは微塵もなかった.このことは、長州、薩摩主導によらない日本の近代化が行われたならば、今の天皇制はなかったことをしめしている。
1-1-6 尊皇攘夷から倒幕へ
尊皇攘夷の運動は各地に広がり、幕府の諸外国に対する弱腰外交への批判も強まる中で、攘夷派による外国人襲撃事件が多発した.1860年のアメリカ公使館通訳ヒュースケン暗殺事件、1861年イギリス仮公使館東禅寺襲撃事件(第1次東禅寺事件)1862年イギリス公使館焼き討ち事件(第2次東禅寺事件)であるが、その後の歴史に大きな影響を与えたのが1862年の生麦事件である.この事件は、江戸から薩摩へと帰国中の島津久光の行列(大名行列)が生麦(現、神奈川県鶴見)で、ちょうど通りかかったイギリス人3人を不敬として殺傷してしまった事件である。怒ったイギリス政府は幕府に犯人の逮捕、引渡しと賠償金の支払いを求めた。幕府は薩摩にそれを求めたが、薩摩は非はイギリス人側にあるとして拒んだ.
1863年イギリスは7隻の艦船を持って、薩摩の本拠地鹿児島を攻撃した.薩英戦争である。薩摩もこれに砲撃を持って応じたが武器の性能の差歴然で、鹿児島の町は炎に包まれ破壊された.同じく1864年、長州は、関門海峡を通過した外国船を下関砲台から攻撃した.これに対して、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの17隻の艦船が下関を攻撃、下関戦争である.この戦争も圧倒的な外国船の砲撃によって、長州兵はわずか1時間で敗走し、下関は占領されてしまった.この2つの戦争は、薩摩、長州をはじめとする尊皇攘夷派に大きな影響を与えた.長州では、下関戦争の敗北と京都での敗北、続く第1次長州征伐によって、尊皇攘夷派の勢力は力を失ってしまった.しかし、高杉晋作らの残った尊皇攘夷派の人々は、この敗北からしっかりと次の戦略と展望を作り出したのである.彼らが学んだことは「攘夷は不可能」ということである.圧倒的な軍事力を持つ外国(列強)と戦って、日本を彼らの支配から守ることはできない.となればどうすればいいのか.日本を彼らのような強力な軍事力と経済力を持つ国にすることである.こうしなければ日本は彼らの植民地にされてしまう.日本の近代化こそが今必要なことである.ここに、明治以後の日本の道が開かれたのである.
高杉たちが考えたことは.同じようにイギリスに叩きのめされた薩摩の攘夷派にも同じであった.薩摩の西郷隆盛、大久保利通がそうである。日本の近代化を急がなければならない.かつて、尊王攘夷派の天敵であった幕府の安部正弘、井伊直弼が考えた地点にやっと彼らも到達したのである.もちろん、幕臣の中にもそう考える者はその後も多くいた.いや、この時点で、いまや、徳川の封建体制で日本が存続できると考えたものなどいはしなかった.問題は、誰がどのようにして日本を近代化するかであった.
長州の高杉らの考えたことは、自分たちがその中心になるということだった.そのためには、徳川幕府を倒すことが必要であった.「倒幕」というスローガンがここにいたって登場するのである.尊皇攘夷から尊王倒幕へと運動は大きく方向転換していったのである.それはまさに、コペルニクス的転換とも言うべく180度の転換であった.
コラム 高杉晋作と奇兵隊
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長州尊皇攘夷派の中心人物、高杉晋作はある意味で、明治維新を開いた第1の功労者である.だが、彼が今生きていたならば、最大の過激派として恐れられたにちがいない。東禅寺事件を計画し、イギリス人を殺傷したのも彼であるし、関門海峡を通行する外国船を砲撃したのも彼である.この過激さ、無鉄砲さが後に歴史を変えることになるのであるが、そのスケールの大きさは時代を通して比類がなかった.わずか30歳にして維新を前にして病死した彼の辞世の歌“おもしろき ことも無き世を おもしろく”は彼の波乱の生涯をよく物語っている.坂本竜馬、西郷隆盛と並んで、維新の人気者として小説に映画に何度も描かれるのは当然である.
1-1-7 薩長同盟から倒幕へ
長州とならぶ雄藩であり尊皇攘夷運動の中心でありながら、公武合体派へと転換し、禁門の変、第1次長州征伐と長州討伐の中心となった薩摩藩を再び尊皇派へと引き戻し、倒幕派として、長州と手を結ばせたのが坂本竜馬である.坂本は薩摩、長州と並ぶ尊皇攘夷派の拠点であった土佐藩の下級武士である.土佐藩も藩主の公武合体派への転換によって攘夷派が弾圧されると土佐藩を脱藩し、諸国を駆け回り、攘夷派の人々と交流を結ぶとともに、積極的に幕府の近代主義者とも親交を重ねた.
その中に、幕府の海軍奉行(海軍長官)勝海舟がいた。勝は幕臣といえどもこの時代きっての近代主義者であった.勝の影響から、坂本は攘夷ではなく開国、近代化が日本の急務であることをいち早く気づき、日本最初の商社「海援隊」を創設した。長崎を根拠地として、イギリス商人などと取引をする中で、坂本は旧知の長州藩や薩摩藩の旧攘夷派の人々と接近し、日本の近代化の必要性を説いたのである.坂本にとっても、日本の近代化にとって徳川幕府は邪魔な存在だった.坂本の中で、薩摩、長州連合による倒幕の計画が練られたのである.坂本は犬猿の仲であった薩摩と長州に手を結ばせるために奔走した.「列強の支配から逃れ、日本を近代化するために」と説く坂本の熱意についに薩摩と長州が手を結んだのである.1866年、長州代表 桂小五郎と薩摩代表 西郷隆盛によって、薩摩長州の軍事同盟「薩長同盟」の密約が結ばれたのである.
コラム 坂本竜馬
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坂本竜馬は、日本近代史上最も有名であり、人気のある人物である.彼の縦横無尽の活躍によって、明治維新がなったことや、その先見の明の鋭さなどが人気の秘密であるが、やはり、彼ほどの柔軟な思考や先を見る目の確かさをもった人間はまれであるといっていいだろう.また、維新前にして、新時代の日本のあるべき姿を描いた功績も特筆すべきである.彼が後藤象二郎に船中で語ったとされる、「船中八策」には、2院制の議会の創設や、議員の公選など民主主義政治の確立、政府の役人の公募、平等な国際条約の締結、憲法の創設など近代民主主義国家の根幹をなす施策があげられており、明治新政府の政策よりもかなり革新的なものであった.ただし、彼の政策の中にも、天皇を中心とした政府というように、天皇制を超えた思想は見えない.この辺に、尊皇派の思想的限界が見られるのが特徴的といっていいだろう.右派と見られる土方らの思想と比べると興味深いところである.
1-1-8 戊辰戦争と幕府の滅亡
薩摩と長州の軍事同盟の成立によって、倒幕のシナリオが完成したが、その前に、長州における尊皇倒幕派の復権の重要性を上げなければならない.明治維新と呼ばれる.日本の近代化革命は、長州によって切り開かれた点をしっかりおさえておかなければならないからである.
幕末日本最大の尊皇攘夷派根拠地であり、最過激派であった長州、そのため第1次長州征伐によって壊滅的打撃を受け、朝敵の汚名を着せられた長州.その長州を再び、倒幕派の拠点として立て直し、後の戊辰戦争の口火を切らせるまで鍛えたのが、高杉晋作である.
藩内の尊皇派粛清によって追われた高杉は、残された数十名の同志と長州藩内武力クーデタを決行したのである.藩政を再び自分たちに取り戻し、倒幕派として立たせるにはこれしかなかったのである.わずか数十名の同志とは、彼が創設した奇兵隊志士のことである.奇兵隊とは、高杉が欧米の近代軍隊から学んだ民衆軍隊である.農民、町民層の若者を集め、軽装に銃という、それまでの日本にはなかった軍隊だった.この行動力と集団的戦闘という近代的戦法が幕府軍を完璧に打ち破り、明治を切り開くことになった.日本における最初の近代的軍隊がこの奇兵隊である.奇兵隊によるクーデタの成功により再び藩政を取り戻した高杉らによって、薩長同盟が成ったのである.その意味で、高杉の数十名のクーデタこそが明治を切り開いたといってもいいだろう.
長州藩の再度の翻意は幕府を怒らせ、1865年の第2次長州征伐を起こした、しかし、これが幕府の息の根を止める引き金となったのである.幕府の命令にもかかわらず、第1次長州征伐の主力軍であった薩摩が出兵を拒んだのである.薩長同盟の結果である.薩摩抜きで行われた第2次長州征伐は高杉率いる奇兵隊の前に幕府軍の敗北という無残な結果を生んでしまったのである.このことは、全国に幕府の無力を示すこととなり、取り返しのつかない事態へと歴史は展開していったのである.1866年14代将軍徳川家茂が若くして病死すると、幕府はそれを理由に一方的に兵を引き上げ、長州との戦争を止めてしまった.幕府は急遽、一橋慶喜を15代将軍として即位させた.最後の将軍徳川慶喜である.この徳川慶喜こそ、最後の逆転を図り、幕府による日本近代化を進めようとした人物である.
薩摩、長州にとって、倒幕の大きな障害となっていたのは、孝明天皇であった.彼が公武合体派だったからである.尊皇を掲げる以上倒幕の詔勅なくしては、兵を上げることはできなかったのである.しかし、1866年12月、まるで計ったようなタイミングのよさで、孝明天皇が病死したのである.そして、父とは違って、倒幕派の明治天皇が即位したのである.
この明治天皇こそ、岩倉、三条らの攘夷派公家によって育てられてきた人物であり、明治以後の日本の近代天皇制最初の天皇となった人物である.
倒幕派天皇のもと、薩摩、長州は天皇に倒幕の詔勅を出させ、倒幕の軍を上げる準備をすすめた.これに対して、1867年10月、将軍慶喜は天皇に政権を返上するという先手を打って対抗した.大政奉還である.これによって、天皇の命に従わない幕府を討つという倒幕側の大義名分を失わせたのである.慶喜は、フランスに接近するとフランス軍将校を招き幕府軍の近代化を図り、幕府の改革を行い、近代化政策を推し進めた.幕府軍の近代化が成ると倒幕の可能性が低くなると見た薩摩長州は次の手を打った.幕府から実権を奪うことである.
1867年12月の王政復古の大号令がこれである。天皇への政権返還だけでなく、実質的に朝廷が日本の政治を担うという宣言である.これによって、将軍の地位は消滅するのである.そのことは、徳川将軍の権威と領地の消滅を意味した.幕府と徳川将軍の権力を一気に打ち砕こうとしたのである.将軍慶喜は朝廷の領地返還命令に従わなかった.これをすれば、幕府による近代化も幕府そのものもなくなってしまうからである.朝廷の命令に従わない幕府、ここに薩摩、長州にとって、倒幕の大義名分ができたのである.倒幕軍は江戸に向かって兵を上げた.これに対して、幕府についた藩兵を中心とする幕府軍も迎え撃つべく西に向かった.
いよいよ内戦の開始である.1868年1月、京都の鳥羽、伏見で両軍は戦端を開いた(鳥羽、伏見の戦い)。戊辰戦争の始まりである.この時点では、まだ幕府軍は薩摩、長州を主力とした倒幕軍(官軍)の数倍の兵力を持っていた.しかし、戦闘は奇兵隊を模範とした近代的軍装と戦法の倒幕軍の前に幕府軍は敵ではなかった.幕府軍総司令官として大阪城に陣を張っていた将軍慶喜は、幕府軍敗北の知らせを受けると、さっさと船に乗り、江戸に帰ってしまった.総司令官を失った幕府軍は総崩れとなり、幕府軍は大敗北となったのである.幕府軍敗北の報が全国に広がると、各地で反幕府の武力蜂起が起きた.それは、下級武士の集団であったり、農民であったりした.また、江戸の町では“ええじゃないか”と踊り叫びながら、金持ちの商人や質屋を襲う民衆が現れ、農村では“世直し”を叫ぶ農民一揆が起きた.
将軍徳川慶喜は江戸に帰ると、朝廷に恭順の意思を示し、自ら隠居してしまった.1968年4月、倒幕軍(官軍)総司令官西郷隆盛は、幕府軍総司令官勝海舟と会談し、江戸城明け渡しが合意され、倒幕軍(官軍)は江戸無血入城を果たした.倒幕軍(以後新政府軍)はその後、東北地方の幕府側勢力との戦闘を続けたが、1869年5月の北海道の函館に立てこもった最後の幕府勢力との戦闘を持って内戦は終了した.
ここに名実ともに、徳川幕府260年の歴史が終わり、明治時代という、近代日本が始まったのである.
コラム 徳川慶喜
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15代将軍徳川慶喜は、大政奉還後、諸藩の大名を議員とし、自ら初代大統領となる議会を開こうとした.これは、フランス議会を真似したもので、大統領と議会による共和制を目指したものである.従来、この慶喜の構想を幕府と将軍の生き残り策とする見方が多かったが、慶喜が.将軍在任中にヨーロッパの政治制度や法律の研究を進めていたことから、決して生き残り策としてだけではないとの見方も出されている.慶喜の近代化政策も、天皇制でなく共和制だったところが興味深い.
コラム 官軍と賊軍
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薩摩、長州を中心とする倒幕軍は自らを官軍と呼んだ.これは、官、つまり天皇の軍隊という意味である.このことは、官軍にはむかうものは、天皇に逆らうもの“賊軍”ということを示した。官軍は“錦の御旗”と呼ばれる、天皇の軍隊であるしるしの絹の旗を掲げたため、これを見た幕府軍は“賊軍”(天皇に逆らうもの)といわれることを恐れ、敗走したといわれる.幕末における天皇の存在を物語るよい例である.これ以後、日本では、誰も逆らうことのできない旗(建前)を掲げることを“錦の御旗を掲げる”というようになった.また、“賊軍”という汚名はその後100年以上も日本でいきつづけることになったのである.
コラム 会津藩
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新政府軍と戦った藩としては、会津藩が有名である.現福島県にあった会津藩は藩を上げて、新政府軍と戦い敗れた.新政府軍(官軍)と戦ったために賊軍の汚名を着せられた会津藩であったが、幕末を通じて、京都守護職として、京都御所の警護にあたり、禁門の変では天皇を守るために長州と戦った.この藩が、薩摩、長州側につかなかっただけで、賊軍とされたことは“官”“賊”の振り分けがいかに政治的だったかの証拠であり、天皇がいかに政治的に利用されたかの証拠でもある.多くの藩士を殺され、領地を没収された会津藩は、本州最北端の未開の地、下北半島に移され、多くの人々がその極寒の荒地で死んだのである.会津の人々の名誉回復はずっとあとのことである.
コラム 偽官軍
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鳥羽、伏見の戦いによる幕府軍の敗北以後、全国で民衆の武装蜂起が続いた.武装集団は自ら、官軍を名乗ったり、世直し軍を名乗ったりした.新政府軍は進軍すると、合流しようとしたこれらの民衆武装集団を“偽官軍”として処罰した.このことは、新政府軍が、薩摩、長州主流であることを守ろうとしたことをあらわしている.明治維新と呼ばれる、日本の近代化革命を“薩摩、長州クーデタ”でしかないとする歴史家がいることは、このような例からである.明治新政府が薩摩、長州による専制であったことからも、この見方は間違いとはいえない面を持っている.
コラム 北海道共和国
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会津とならんで新政府軍に最後まで抵抗したことで有名なのが、先にも述べた、新撰組副長土方歳三や幕府海軍長官榎本武揚がひきいて北海道の函館にこもった勢力である.彼らは、函館に、“北海道共和国”を立て、大統領選挙を行った.このことは、薩摩、長州だけが、日本の近代化を目指したのではないことの証明である.また、王政復古という天皇制の復活によらない欧米流の共和制の近代国家を目指したことも特筆すべきことである.榎本武揚は、明治新政府に対して北海道の開拓を条件に共和国の存続、共存を申し入れたが拒否され、1869年、ついに武力討伐されてしまったが、敗北後、許され、明治新政府の要人として、日本の近代化のために働いた.このことは、幕府側といえども近代主義者が多くいたことの証明でもある.
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